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教育や時事についての日記

宗教とは~宗教教育から見る法人の逸脱~

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目次

 

初めに

 宗教と義務教育の関係について、日本国憲法はどのような立場を示しているのだろうか。日本国憲法第二十条の第三項には「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という条文がある。つまり、日本では憲法において義務教育下の「宗教教育」は憲法上禁止されているといえるのだ。だが、私は「宗教教育」は禁止されていても「宗教についての教育」は義務教育で必要だと考える。そこで、以下では、既述の憲法の条文もふまえつつ、「宗教についての教育」の必要性を宗教法人とも関連させて見ていく。

1.「宗教教育」と「宗教についての教育」の違い

 

 まず、先にも出てきた「宗教教育」とは何だろうか。これについては、昭和22年の教育基本法案特別委員会の辻田政府委員が「…特定の宗教に関する教育という風に考へて居ります。」⑴としている。一方、「宗教についての教育」とは、宗教に関する知識、例へば宗教学といった、宇宙の神秘や生命の不可思議を考えるというようなような教育である。つまり、正確な解釈に基づけば「宗教についての教育」と「宗教教育」は別物であり、義務教育現場においては教職員全員が、このことについて知るべきであるだろう。たしかに、憲法の一つの解釈としては、両者は宗教について教えるという点で、同じものだと捉えることもできる。そして、まだ自我を確立しているとは言えない児童生徒に対して、大人(教師)の言う「宗教」のことがどれだけの影響を与えるのかについても注意するべきであるだろう。

 だが、私の考えとしては、辻田政府委員の言葉もふまえると、特定の宗教について教え ること、例えば、キリスト教について教えるときに、他の宗教との比較もせずにキリスト教の教義を細々と教えることに関しては禁止すべきであるが、宗教を中立的な立場からとらえ、子どもたちに必要な「知識」を教えること、つまり「宗教についての教育」は禁止しなくてもよいと考える。理由としては、前者(宗教教育)は特定の宗教に偏った、いわゆる「信仰心」を養わせるような教育となってしまい、憲法における思想良心の自由や先の条文からも、義務教育現場においては不適切な教育といえるのは確かだ。だが一方で、後者(宗教についての教育)は、人類の伝統や文化、社会そのものを作ったといえる宗教を、日本だけではく、世界に視野を広げて学ばせることが出来るのだ。これは、グローバル化が進行している現代社会において、必要とされていることであり、今後、世界的に活躍の場を広げていく子どもたちにとっても育むべき知識といえるだろう。

2.宗教法人の巧妙な手口

 最初に述べておきたいのは、私の親しい友達は、日本で最も大きい宗教法人を信仰していた。その人は、家族がもともと信仰しており、いわゆる二世といえた。葛藤していたことなど、そうした二人で話をたくさんしたことをふまえた意見である。決して、誹謗中傷のためや、主観的な意見でないことを考慮してほしい。

 宗教法人は、「教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする団体、つまり「宗教団体」が都道府県知事若しくは文部科学大臣の認証を経て法人格を取得したもの」⑵とされている。ここで、この文章を読んだ人は、教義とは何か、儀式行事とは何かわかるだろうか。世界の三大宗教は、皆が周知の意通りであるが、キリストの教義は本来何であるのか。日本の宗教法人に多い仏教であるが、儀式行事はどういったことなのだろうか。その意図は。なにを背景にして宗教ができたのだろうか。それを知らずして、宗教を信仰していいものなのだろうか

 最近は、宗教法人に若者がよく訪れるそうだ。それがなぜか。昔からの、墓参りや親子関係、親戚関係が薄れ、人間関係の希薄が進行してきたことで、日本古来(宗教ではなく文化的な)の習慣が衰退し、ストレス社会の現代に耐えられなくなった人々が一歩踏み出してしまうのではないだろうか。だが、そこには心理学を駆使した、必ず信仰を勝ち取るための戦略が、宗教法人にはある。その、矛盾を客観的に理解するためには、先に述べた「宗教についての教育」の必要性があるのではないのだろうか。 

まとめ

 「宗教についての教育」は、義務教育で行う必要があり、それを行う際には、細心の注意を払うこと、そして、政府だけでなく、学校現場や地域との連携を図ることで、偏った「宗教教育」になることを防ぎ、それが将来を支える子どもたちの「知識」の構築につながると私は考える。

 また、宗教法人については、多様な考えの一つとして、そうした営利団体も一方的に否定することはできない。しかし、日本が思想良心の自由を掲げていることを利用し、宗教法人が信者から「お布施」として利益を得ていることについては、たとえその団体の教義や思想に共感を得ていたとしても、知っていてほしい事実である。 

大学生 ボランティア活動 ~得られたことのまとめ~

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参照:https://search.yahoo.co.jp/image/search

目次

 

初めに

 私は、私立の大学でボランティア活動をしている。主に児童養護施設に訪問し、3歳から6歳までの児童と鬼ごっこや縄跳びなどをして遊ぶ。月に一度の活動であるため、活動がない時とあるときの、自分の変化を身に染みて理解することができる。そのことを5つにまとめて述べていく。

1.自分を必要としてくれる

 ボランティアとは、自分から進んで社会活動などに無償で参加することであり、必要とされる場に出向くことである。

 私が児童養護施設で感じたことは、日々の遊びに新たな変化を欲している子どもたちや、自分にとって都合のいいような遊び相手、そう言った環境を欲している児童の姿である。

 大学生になると、日々の生活は自分次第で大きく変化していく。勉学に励む者。遊びばかりしている者。日々バイトに追われる者。しかし、そのなかにボランティア活動をしようと思う人は少ないのではないだろうか。確かに、ボランティア活動をする人は増加傾向にあり、勉学の一環として活動するものもいる。しかし、その一方で、ほとんどは友達作りや就職のためなどの活動であり、ボランティア本来の精神が薄れてきている。つまり、そうしたボランティアの精神にのっとった活動をする人が減少してきているということである。

 子どもたちは、新しいことに興味を持つため、これまでたくさんのことに触れてきた私たちの行動1つ1つを魅力的に感じている。つまり、誰であっても、今日までの経験、例えば絵がうまい人。スポーツができる人。面白い人。なんでもいいのである。そのすべては子どもたちにとって新鮮なのである。

 私たちを必要としてくれる人は必ずいて、それに気づき、一歩踏み出すことでボランティア活動を含め日々のそれぞれの活動が、してもらう側の心もする側の心も豊かにするのである。

2.ボランティアの精神

 上記でもふれたボランティアの精神であるが、私は次のように考える。それは、ボランティアをして見返りを求めてはいけないということである。ボランティア活動にあまり参加してこなかった人が良く言うのは「しても意味がない」「時間の無駄」「アルバイトした方がまし」など、到底ボランティアに結びつきそうではない発言ばかりである。

 しかし、ボランティアはそもそも相手に何かを求めるものではない。誰かに求められたこと、もしくは求められていると感じた時に活動もするものである。だから、時間が無駄だと感じているのは、相手に何かを求めており、ボランティアをしている自分自身から何かを得ようとはしていないからそのように感じるのである。アルバイトをした方がいいと考えている人についても、アルバイトのようなお金の価値をボランティアをして相手から得ようと考えているからなのである。ボランティアは活動を通して自分で価値を見出すものなのであり、相手に何かを求めてはいけない。少なくとも、最初からそう言った精神でボランティアに参加することは避けてほしいと思う。

 そこで次の章では、そのボランティア活動がどういった価値を私たちにもたらしてくれるのかについて述べるとともに、読者の方々のアルバイトや遊びその他の様々な時間のなかにボランティアがふくまれていけば幸いである。

3.無償から得られる価値とは

 ボランティア活動については述べてきたのでわかると思うが、それらの無償奉仕活動から何が得られるのか。それに触れていく。

 まず第一に、心に余裕が生まれるということだ。これを言うと、心に余裕のある人がボランティアをするんじゃないか?と、思うかもしれない。しかし、逆なのである。ボランティアをすることで、予言の自己成就のような効果をもたらし自分の心、つまり精神的に落ち着きをもたらすのだ。

 第二は、出会いがあると言うことだ。特に、ボランティア活動をする人に悪い人はいない。他の人と差別しているわけではない。しかし、ボランティア活動は、第一で述べた心に余裕を持てる人物であると言える。自分と合う人は、自分と同じ行動、思考をしてるだろう。ボランティアはそう行った人との出会い、良い出会いがあるのだ。これは、他の活動とは質の違う出会いと言えるだろう。

 

まとめ

  1. ボランティア活動は、無償奉仕活動
  2. 魅力ある自分を実感できる
  3. ボランティアの精神は、公的であること
  4. 心が調う
  5. 良い出会いがある

 以上の五つが私がボランティア活動を通して得られたことのまとめである。フォロー等よろしくお願いします。

 

 

 

 

ポジティブシンキングの効果 ~心理学から見る3つの理由~

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効果その1

~人生が楽しくなる~

 ポジティブシンキングは、まず何と言っても幸せになれるだろう。これは、周りから見ても感じることではないだろうか。

 「あいつ、幸せそうだな~」「辛いことしてるのに、楽しそうだな~」

ポジティブシンキングは、見ての通り楽しくて幸せになるのである。

 例えば、油断をしてしまい車をぶつけてしまったとする。ネガティブシンキングの人は「ぶつけてしまった。もう運転したくない。なんで俺だけ。」などの考えに至るだろう。しかし、ポジティブシンキングの人はどうだろうか。「次ぶつけないようにしよう!誰もケガしなくてよかった!」となるのである。

 過去の出来事は変えられない。だからこそ振り返るよりも、前を見てえポジティブに考えていくことがよいのだろう。

 

効果その2

~周りを幸せにする~

   人間は一人では生きていくことができない。これは、考えてみればすぐにわかることである。自分が使っているもの、今住んでいる家、自分ではできないことを、他の人々に支えられて生きているのである。

   しかし、ネガティブシンキングであると、そうした支えられていることすら忘れ、周りを嫌い、周りから嫌われ、生きて行くのが辛くなってくるだろう。つまり、ネガティブであるとデフレスパイラルに陥ってしまうのだ。

   周りに幸せを与えるのは、自分が幸せだから与えることができる、と思う人がいるが、それは違う。周りを幸せにするから自分が幸せになるのである。そして、その根本にあるのがポジティブシンキングなのである。この法則を理解していただきたい。

効果その3

うつ病にならない~

 うつ病とは、心が沈んで、言葉が少なくなり、意気消沈した状態のことである。抗うつ薬によって治る人もいるが、それは薬によるものであり、根本的な解決にはならない。加えて、抗うつ薬は三人に一人の割合の人にしか効果が著しく出ないとされている。

 一方では、脳の病気だとして、新しい治療もなされているが、病気とは発病する前に防ぐことが大切であり、そう考えるとそうした科学的治療は望ましいとはいいがたい。これをふまえると、ポジティブに物事を考え、心を沈めず、言葉を増やし、意気込みをもって元気に過ごせば良いのである。

 一概に、こうしたからといって、絶対にうつ病にならないわけではないが、ストレスやイライラといった、うつ病と関連してしまうことは乗り越えることにより良い作用がもたらせるという科学的根拠も発表されている。ポジティブシンキングがもたらす効果は、こういった部分にも出てくるのではないだろうか。

 

   

 

本を読むメリット ~大学生が感じた5つのこと~

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本を読むメリットその1

 ~日本語に強くなる~

 インターネットの普及により、紙媒体を使用する頻度が減少してきている。例えば、これまでは、レポートを提出する場合は、レポート用紙に手書きで記入していたのだが、今日ではWordを使ってパソコンから提出といったように変わってきている。

 だが、そう言ったようにインターネットの文字や手書きによる活動が減ることは、日本語に弱くなってしまう原因になることは注意しなければいけない。その理由は、第一に、インターネットに書いてある日本語がすべて正しいということではないということだ。私も、学者ではない。日本人ではあるが、正しい日本語を使えているかといえば、それは判断し難い。

 しかし、本はどうだろうか。誤字があっては出版にもたどり着けない。また、より伝わりやすい、読む方のニーズに合った言葉を選んで書いてある。加えて、章分けがなされており、序論本論結論、起承転結といったようにうまくまとめられているだろう。そうした部分から、正しい日本語、日本語を使って相手にどううまく伝えるべきかがわかってくる。

 余談ではあるが、英語は結論を最初に述べる。I play ~のように私は~をする。と最初に述べている。日本語とは大きく違うのである。英語が苦手な人はここにつまずくのかもしれない。

 

本を読むメリットその2

~意見の多様性を知れる~

 言われてみると、わかると思いますが、普段人は自分の考えが正しいと思いこんでしまう傾向にある。相手が、自分の考えを批判して来れば、それに負けじと反発しようとする。心理的には、わからなくもありませんが、それは人間関係を築くうえでも、また自分の成長にもつながりません。そうした時に本はどのような影響を与えてくれるのだろうか。

 ある分野に対する著者はたくさんいる。それぞれ、意見には賛成もあれば必ず反対もあるものだ。そうした両者の意見は、インターネットには細かく書かれてはいない。ニュースでも、視聴率を考えて視聴者のニーズに応えるものしか伝えない傾向がある。だからこそ、本を活用し、それを通して知ることで、より一層その分野の様々な意見に触れることができる。そして、自分の意見がたくさんの著者の考えを吸収した根拠あるものに近づくのである。相手の話を聞き、理解をしたうえで聞く。これが、互いにとっても、自分の意見に対する論理的思考の向上にとってもプラスに働くのである。

 

本を読むメリットその3

~会話が弾む~

 これについては語弊があるだろう。本を読んでいる人はまじめ。おとなしい。会話が成り立たない。しかし、もう一度その場面を思い出してほしい。あなたは、相手の提示した話題の話をしていただろうか。自分の知っている分野の話だけになっていなかったか。会話は、話す人がいれば聞く人がいる。そうなったとき、本を読んでいる人は多様性の本意を知っている。だからこそ、聞き手に回る人が多くなってしまう。

 確かに、本を読んでいて、自分の意見をどんどん述べる人もいるだろう。しかし、表に出るから、そのように見えているだけであって、本を読む人の多くは相手の意見を聞き、理解しようとする。小説を考えてみればわかりやすい。登場人物の気持ちに立ち、たくさんの人間関係を見る。そこで言えてくる多様性。

 つまりは、普段話をしているこちら側が、聞き手に回ってみてはどうだろうかか?会話が弾むだろう。そして、有益な話、有意義な時間になることは私が保障しよう。

 

本を読むメリットその4

~社会性が身につく~

 これは、大学生に伝えたいことである。社会人への階段を一歩ずつ歩み始めている大学生は、アルバイトなどを通してすでに社会に大きくかかわってきている。しかし、アルバイトやインターンシップだけで社会を理解できたと胸を張って言えるだろうか。社会に出ている人全員が、社会性を身につけているわけではない。しかし、少なくとも社会で生き生きと生活し、活躍している人のほとんどは社会性を身につけている。それは、本のみならず新聞などの紙媒体を通して社会を知り、自分の今置かれている現状を知り、社会化していく。

 一方、サラリーマンをはじめとした社会人は、通勤の合間などにニュースをスマートフォン、本をスマートフォンといった動きが出てきている。これにおけるメリットデメリットは、他の記事で掲載するため、触れないでおくが、これだけは言っておきたい。今すぐ、情報機器を副流、紙媒体を主流にするべきである。

 

 本を読むメリットその5

~頭がよくなる~

 既述の内容と重なる部分があるかもしれないが、頭がよくなることは言うまでもない。だが、よく耳にするこの手の話は、述べている人のほとんどは(私も含め)抽象的である。

 どのように頭がよくなる?なにができるようになる?

といったような具体的なものが述べられない。そこで以下ではそこに触れていきたい。

 まず、第一に論理的思考能力身につく。簡単に言えば、相手にうまく伝えられるようになるということだろう。これは本を通して、自分より頭がよい方々から吸収することによって身につくと思われる。

 第二に、ポジティブになるということである。これについても詳しくは記事を掲載するが、ネガティブに陥る人は自分だけこういった目にあっていると思いがちである。しかし、本を読んでみてふと気づくことは、著者(特に自己啓発本)は、ネガティブシンキングが不のスパイラルをまねいていることや、イライラやストレス、困難は乗り越えるためにあることを教えてくれる。それを知ると、おのずとポジティブになるだろう。

 ここで、頭がよくなることと関係ないと思った人もいるかもしれないが、頭がいい人は、自分の好きなことに対しては常にポジティブなのである。どんなことがあっても、ポジティブに考え好きでいられる。そうした強い精神力があるからこそ成功するまで努力でのである。

信頼関係を築く6つの法則~7つの習慣から学ぶ~

はじめに

・信頼残高を高める

 信頼残高とはある関係において築かれた信頼のレベルを表す比喩表現である。礼儀正しい行動、親切、正直、約束を守るなどの行動を通して信頼残高を作っていけば、そこに貯えができる。残高を高めることによって、必要とあらば、その信頼を何度も頼りにすることができる。些細な間違いを犯しても、信頼のレベルや精神的な貯えがそれを補ってくれるのである。

 しかし、無礼な態度を示したり、相手の話に途中で口を挟んだり、あるいは過剰反応をし、相手を無視し、自分勝手に振る舞い、相手を脅かし、相手の生活をこちらの意のままにしようとするような行動が日ごろから見られれば、ゆくゆくは信頼の残高不足を起こし、硬直的なコミュニケーションしかできなくなってしまうだろう。

・人間関係における応急処置は幻想

 深い人間関係をを築き、あるいは治すためには時間がかかる。あなたの努力に対して他者が反応しないことに腹を立てて忍耐力を失ってしまえば、それは逆に莫大な信頼の引き出しとなってしまい、今までの努力はすべて台無しになってしまうだろう。誠心誠意、相手の考えに耳を傾け、たとえ疑われようとも、忍耐することが大切なのである。生き物を育てるように、「根の成長を見たいと思っても、花を土から引き抜いたりしない」ためには、それに耐えうるだけの人格が必要なのだ。

 応急処置は本当の意味では存在しない。人間関係をつくり、あるいは関係を修復するということは、長期的な投資であるのだ。

信頼関係を築く6つの法則

  1. 相手を理解する

     まず、相手を理解してからでなければ、その人にとって何が信頼の預け入れになるのかを知ることはできない。自分では預け入れだと思ってやっていたことも、相手にとっては引き出しになっている場合もある。ある人にとっては一大事でも、他人にとっては些細なこともある。だから、信頼関係を気づく第一歩としては、相手にとって大切なことを、自分にとっても大切なことに思う必要があるということなのである。

  2. 小さいことを大切にする

     小さな心遣いと礼儀は大切で、小さな無礼と不親切、無神経は人間関係において大きな引き出しとなる人の内面は、非常に感受性が豊かで傷つきやすいものである。外見はどんなに固くて冷淡に見えても、内面には痛みを感じやすい心があるのだ。

  3. 約束を守る

     約束を守ることは大きな預け入れであり、破ることは大きな引き出しである。相手にとって大切なことを約束しておきながら、それを守らないことほど大きな引き出しはないだろう。

     しかし、あらゆる努力にもかかわらず、時として予期せぬ出来事が起こり、約束を果たすことが賢明ではない、あるいは不可能という状況に遭遇することもある。そうした時は、状況を度外視してでもその約束を守るか、あるいは状況を相手によく説明し、約束から解放してもらえるように相手の同意を求めることがよいだろう。

  4. 期待を明確にする 

     人々は自分の持っている期待に照らして、相手を裁く。そして、自分の持っている基礎的な期待が裏切られたと感じれば、信頼の貯えが減少することになる。だからこそ、最初から期待像を明確にすることは預け入れになる。期待があいまいであったり、共有化されていなかったりすると、人は感情的になり、単純な誤解であったとしても、やがては人間関係に大きな問題を生じさせることになるだろう

  5. 誠実さを示す

     個人的な誠実さが信頼を築き、様々な預け入れの基礎になる。誠実さの欠如は、信頼残高を増やすための努力をすべて台無しにしてしまう。 

     誠実さとは、相手を騙したり、下心を持ったり、人の品位に合わない一切の話を避けることでもある。逆に嘘とは、相手を騙す意志を持つ一切のコミュニケーションを示す言葉である。誠実さを持てば、言葉や行動に騙す意志など生まれるはずがない

  6. 引き出しをしてしまったときは、誠意をもって謝る

     信頼残高の引き出しをしてしまったときは、誠意をもって謝らなければならない。しかし、自分が弱いものに見られ、他人がその弱さにつけ込み、それを悪用するのではないかと恐れてしまえば、誠心誠意を込めた言葉で謝ることはできない。また、性懲りもなく同じ行動を繰り返しながら謝ることは、かえって誠意がないと見られ、引き出しになる。 内的な安定性を保ち、誠心誠意をもって謝ることが大切なのである。

まとめ

 家族、学校、会社など人間は必ず誰かと関係を持っている。信頼とは、そうした関係において、潤滑油ともいうべきものである。人間関係をよりよくし、自分だけでなく、関わりのある他者にとってもプラスとなるだろう。また、それだけでなく自分の目標や人生において想像以上の効果性を発揮することは言うまでもない。

 人間関係で悩んでいる人、信頼関係をうまく築けていない人は、この6つの法則を一つずつやってみてほしい。一気に行うことは難しい。これまでの、自分を変えることはそう簡単ではない。少しづつ改善をしていくことをお勧めする。